2月19日「プロレスの日」力道山・木村政彦組対シャープ兄弟から猪木・馬場、新日本・全日本プロレスへ

プロレスに関する記念日は色々ありますが、2月19日は「プロレスの日」です。

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1954年のこの日、日本初の本格的な国際試合、力道山木村政彦組対シャープ兄弟のNWA世界タッグ戦が開催された事が由来だそうです。日本テレビNHKが同時中継し、新橋駅の街頭テレビには2万人の群衆が押し寄せたこの試合、大相撲出身の力道山と最強柔道家木村政彦がアメリカの一流プロレスラー(シャープ兄弟はカナダ出身ですがアメリカで活躍したレスラーです)を相手に世界タイトルをかけて戦い、空手チョップでなぎ倒す訳ですから当時の観衆の熱狂ぶりは想像に難くありません。3本勝負の試合は1-1の引き分けで、翌日以降もタイトルマッチが組まれますがシャープ兄弟はタイトルを保持したままシリーズを終えます。ちなみに、これに遡る事約半年の1953年7月30日、力道山を中心に日本プロレス協会が発足しており、この日は「プロレス記念日」とされています。

戦後間もない、反米感情が強かったであろうこの時代、力道山率いるプロレスが日本人の心を捉え、プロ野球・大相撲と並ぶ大衆娯楽となったのはこの一戦の影響が強く、この試合が無ければ今のプロレスも無かったかもしれません。事実、力道山以前にもプロレス自体は存在しており、1955年には多数のプロレス団体が旗揚げしましたが興業としては厳しかったようです。力道山のパートナーだった木村政彦国際プロレス団という団体を立ち上げましたが、12月22日に行われた「昭和の巌流島」と呼ばれる力道山との一騎打ちに破れ、その後団体は消滅してしまいます。

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力道山の死後、それまでは日本プロレスの独占状態だった日本マット界でしたが、日本プロレス2代目社長だった豊登とエースの一人だったアントニオ猪木東京プロレスを、取締役営業部長だった吉原功ヒロ・マツダと共に国際プロレスを相次いで旗揚げします。その後、東京プロレスは崩壊、アントニオ猪木新日本プロレスを旗揚げし、ジャイアント馬場日本プロレスを脱退し全日本プロレスを旗揚げ、両エースを失った日本プロレスは衰退し、現在まで続く他団体時代の幕開けとなりました。なお、国際プロレスは1981年まで営業を続けますが、8月9日の羅臼大会を最後に活動を停止、所属選手は新日本、全日本、海外にそれぞれ活躍の場を求めます。

 現在、日本には数え切れないほどのプロレス団体が存在しています。そのルーツを遡っていくと直接的・間接的に全ての団体がこの「プロレスの日」に繋がっていると言えるかもしれません。1954年2月19日に行われたこの試合、この機会に改めてじっくり観てみようと思います。

以上、2月19日はプロレスの日、でした。

 

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)
 

 

 

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